2019年3月14日

国内最大、最古級の「水銀朱」生産拠点、縄文後期の加茂宮ノ前遺跡

縄文時代後期(約4000〜3000年前)の集落跡、阿南市の加茂宮ノ前遺跡の発掘現場で、【加茂宮ノ前遺跡現地説明会】がありました。

2019年2月23日の土曜日、空は快晴、風は心持ち冷たく感じましたが、春がすぐそばまで来ているのがはっきりとわかる陽気でした。
阿南市加茂町宮ノ前・・・そこは私のふるさと、というより私の家のすぐそばにあって幼いころ川遊びをしたり木の実(しゃしゃぶ(グミの原種?)、椋(むく)、ヨノミ(榎)など)を採ったりした懐かしいエリアなのでした。
この日は市の内外、遥か県外からもたくさんの人がやってきて、埋蔵文化財センターの人の説明に耳を傾けました。
報道によると、1000人近くの人が来てくれたとのことで、この種の説明会としては異例の多さだそうです。

以下、現地説明会の資料なども使わせていただきながら私H・Oが報告します。
★当初の説明では弥生時代中期末から鎌倉室町の遺跡と発表されました
昨年、平成30(2018)年7月14日(土)に行われた現地説明会では、
「この発掘現場は那賀川河川改修事業の事前調査として、徳島県教育委員会と同県埋蔵文化財センターが平成28(2016)年8月から発掘調査を進めてきたもので、これまでに鎌倉時代の建物や墓、弥生時代中期末~古墳時代初頭(約2000年前)にかけての水銀朱(すいぎんしゅ)生産に用いた石杵(いしぎね)、石臼(いしうす)などの道具類、弥生時代中期末の竪穴住居跡から鉄器の加工を行った鍜治炉(かじろ)が発見されています。その周囲から加工のために使用した道具や製品なども出土しました。日本列島に鉄器製作技術がもたらされた時期のものであり、初期の鉄器製作と利用を考える上で貴重な成果を得られました」との説明がありました。


                            石臼(いしうす)

鍛冶炉の発見。国内最古級、大規模な鉄器の生産拠点があった
昨年の発表で、加茂宮ノ前遺跡で見つかった竪穴住居跡20カ所のうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが確認されたとの説明がありました。
鍛冶炉が確認できた竪穴住居跡のうち、最大規模は直径約7メートル。床面には19カ所の赤く焼けた部分がありました。この鍛冶炉跡は直径30~40センチで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものといいます。住居跡からは鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石(といし)などの石器類も出土しました。
県教委などによると「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」とし、鉄器の製造工房として国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南に位置するこの宮の前では大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられています。

石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘(ぼうすい)車、古代の祭祀(さいし)などに使われた赤色顔料・水銀朱(すいぎんしゅ)を生産する石杵(いしぎね)や石臼なども確認。さらに、ガラス玉や管玉(くだたま)など、県内で数点しか出土していない希少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達します。
これらのことから、宮ノ前集落は鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても大いに繁栄していた可能性があるということです。

    鍛冶炉を持つ竪穴住居跡              赤く焼けた鍛冶炉跡

 

★県内初の発見、縄文時代後期の「円形配石遺構(えんけいはいせきいこう)」
今回の現地説明会では、その後の調査で、弥生時代中期末(約2000年前)の生活面より約1m下まで掘り進んだところで縄文時代後期(約4000~3000年前))の集落跡が確認されました。遺構には竪穴住居、屋外炉、土坑などがありますが、その中でも注目されるのは県内で初めて発見された16基の「円形配石遺構(えんけいはいせきいこう)」で、大型のもので直径約3m、小型のもので1m前後の規模です。
これらの配石遺構は集団墓地として造営されたものと、祭祀施設として造営されたものの二つの種類が存在しており、加茂宮ノ前遺跡のものは墓穴を伴わないことから後者の例と考えられます。西日本において円形配石遺構が竪穴式住居に隣接して検出される例は初めてであり、生活域と祭祀を行った場所が一体として確認された貴重な例といえます。

                   円形配石遺構

 

★県内2例目「分銅型板状土偶」、耳飾りやペンダントも
出土品からも貴重な発見が相次ぎました。県内二例目である土偶は「分銅型板状土偶」(ふんどうがたいたじょうどぐう)と呼ばれているもので、西日本を中心に分布しているものです。また、耳飾りやペンダントなどの装飾品類や祭祀具である石棒類などが出土したことは、当時の人々の暮らしが、狩りや採集といった食料調達のみに追われる毎日ではなく、豊かな心を持って生活を楽しんでいたことがうかがえます。

       分銅型板状土偶               水銀朱を塗った耳飾り

 

★国内最大、最古級の水銀朱生産拠点
そして最大の発見は、縄文時代の遺物包含層や遺構内から出土した水銀朱を生産するための道具類です。赤色顔料である水銀朱の付着した石杵(いしきね)、石臼(いしうす)が300点以上、原料となった辰砂原石も多量に出土しており、「縄文時代後期(約4千~3千年前)の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最多。顔料の一大産地、生産拠点としては国内最大、最古級」であることが明らかになりました。
これらと共に表面に水銀朱が塗られた土器や耳飾りが出土しており、水銀朱の具体的な使用状況が分かる貴重な資料が得られました。今回の発見によってこの地域における水銀朱の生産、利用時期が前回の現地説明会で発表した弥生時代中期(約2000年前)よりも1500年以上もさかのぼることが明らかとなったのです。

      竪穴住居跡                 礫石錘(れきせきすい)

 

を産するところの地名、「丹生」(にう)
「丹」(に)とは・・・水銀朱のこと。辰砂(しんしゃ)。黄色みを帯びた赤色顔料。
「丹生」(にう)・・・丹を産する所の意味。地名として各地に存在するが、いずれもかつては神聖な「丹」を製造して流通させる拠点であったと考えられる。
丹生は「仁宇」とも書かれる。加茂谷の隣町、那賀郡那賀町仁宇には「丹生神社」があり、那賀町一帯は「仁宇谷」と呼ばれ、かつて辰砂から丹(朱)を生産する地域であったことが分かる。

★朱は何に使われましたか
朱は原始古代社会において神聖なものとして非常に重要なものでした。
炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられ、土器に塗られたり、魔よけや防腐剤として木棺や石棺に塗られたり古墳のなかにまかれたりして使われてきました。
また、庶民が高貴な方にお目通りする場合は顔に塗ってから拝謁したり、天皇の船は朱で塗られていたため、「赫船」(あかふね)と呼ばれていたといわれます。

★長期間にわたって栄えた集落
加茂宮ノ前遺跡の集落は、出土した土器の年代から縄文時代後期全般の長期間にわたって継続していることが判明しました。
遺跡からは赤色の顔料「水銀朱」をつくるための石杵や石臼が大量に出土し、顔料の一大産地だった可能性があり、水銀朱、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用されたと考えられます。
また集落で発掘された土器の中に、九州地方の土器の特徴を持つ物が含まれていることから、当時の人々はここを重要な拠点として交易を行い、大いに繁栄していたと考えられます。

     住居跡の背景には室町時代の「加茂城址」のある山や鎮守の森が見える

 

★みんなどこへ行ったのか、私は妄想、空想する。弥生、鎌倉・室町へ、平成へ
公式の説明とは別に、休憩時間とかに、埋蔵文化財センターの方の個人的(?)な見解を聞く機会がありましたが、住居跡が結局100か所ほど発見されたこと、縄文から弥生へ、ほとんど途切れることなく集落があったことなどを教えてくれました。また、現在のように「台風が来て大雨が降ると川が氾濫して宮ノ前を含めた田園地帯のほとんどが必ず浸水してしまう」ことが嘘のように、当時は安心安全で平穏な場所だったとのことで、ここ宮ノ前では1000年単位で豊かな集落が長く引き継がれていったことが分かりました。
また、縄文の人々がどこかに消えて、そのあと弥生人がやってきたのか、という質問に、ある学芸員さんは、「私はこれほどの拠点ですから縄文の皆さんはそのままここに住みついて、弥生時代を迎え、命をつないでいったと思っています、あくまでも私個人の希望を込めた意見ですが」とほほえみながら答えてくれました。
私もそうであってほしい、と思います。
工房には大陸から直接渡来人がやってきたのか、或いはその技術が伝来したのか、もともと日本古来の技術であったのか、いずれにしてもここ宮ノ前は水銀朱や鉄製品を作る一大拠点として栄え、畿内はもちろん遥か九州の地とも交易を行っていたということですから、県南の都市としての華やかなイメージが膨らみます。

私は妄想・空想をしてしまいます・・・・。村にはしっかりとしたリーダーや技術者がいて、20も30もある工房群は一大産業地帯として、いつも大勢の人が出入りして賑やかな声や音が響いています。都の方から来た人でしょうか、たいそう立派な身なりの人が村の長(おさ)の住居に入っていきました。顔を赤く塗った人も見えます。赤い耳飾りやペンダントを付けた美しい女性も見えます。男たちは隆々とした筋肉、住居の中には猪肉が吊るされています。明るい日差しの中で、すぐそばを流れる川が豊かな水量を湛えています。
ここには富があふれ、人があふれ、眩いばかりの活気に満ちた人々の暮らしがあるのでした。

★紀州から加茂にやってきた湯浅兼武
此処から鎌倉、室町時代へとつないでいった人たちは、文明5(1473)年、紀州湯浅庄(現在の湯浅町)からやってきた「湯浅兼武」という武士と出会うことになります。阿波守護・細川氏の命により、ここ「加茂村」今の加茂町を治めることになったのです。その息子たちはそれぞれ阿南市吉井町・楠根町、那賀町鷲敷・相生・木沢などに分かれて治めることとなりました。
その子孫や縁のある人々はその後周辺の地に繁衍(はんえん:増え広がること)していきました。そして明治になって苗字を名乗ることになると、こぞって「湯浅」の名を名乗るようになり、結局、徳島県(特に阿南市、その中でも加茂谷(加茂町・水井町を含む旧加茂谷村を構成した10町の総称)は湯浅さんの姓の密度が全国で断トツとなっています。
皆さん「湯浅」という名に愛着と誇りを持っていた証ですね。

湯浅兼武を迎えたとき、かつて宮ノ前集落を築いた人々の子孫たちは、縄文・弥生の時代を経て、鎌倉、室町へと加茂村の繁栄を華やかに引き継いでいたのでしょうか。
埋蔵文化財センターに当時の発掘品として展示してある白磁、青磁の碗や皿、備前の鉢などを見ると、それなりの文化が花開いていたと思われますが、外の世界からやってきた湯浅氏の場合、もともと平家や鎌倉幕府の御家人として、京都に在って在京奉仕していた関係もあって、高い文化に造詣が深かったのかもしれません。

★那賀町で発掘された小仁宇城跡
ところで、ここから那賀川をさかのぼったところにある那賀郡那賀町(旧・鷲敷町)で、堤防工事に先立って行われた発掘作業で「小仁宇城跡」が確認されました。
ここは那賀川を見下ろす河岸段丘のうえにある遺跡(城館跡)で、室町時代の瀬戸の天目碗や花瓶・梅瓶。黒碁石、大量のかわらけなどのほか、讃岐や中国、阪神方面との交易を示す発掘品が出てきました。
この小仁宇も湯浅氏の治める土地だったわけですが、同時代、加茂村とともに文化の香り高い暮らしぶりだったことがわかります。
この辺りには当時から船着き場がいくつかあったことが分かっていて、今と違って川床も低く、水量も上流にダムがある現在とは大違いなので、「帆掛け船」がゆったりと往来していたという記録が残されています。

      小仁宇城跡(城館跡)             周辺の遺跡

 

★加茂谷にもう一つの日本最古が・・・それは「若杉山遺跡」辰砂採掘の「坑道跡」
~2019年10月16日、「若杉山辰砂採掘遺跡」として国史跡に指定されました~

宮ノ前遺跡から那賀川右岸沿いに上流の方へ5キロほどさかのぼったところに「水井町」という集落があります。集落のはずれあたりに21番札所「太龍寺」に至る遍路道の登り口があって、そこを約1キロ登ったあたりに「若杉山遺跡」と書かれた看板があります。
ここはかつて「水銀朱」と呼ばれる赤色顔料の原料となる辰砂の原石を採掘・精製していたところで、ここで採掘された辰砂原石は下流にあった集落(宮ノ前遺跡)にも運ばれてさらに大規模に精製されていたとみられます。
今年(2019年)の3月1日、阿南市と県教委は、「2018年に発見された坑道跡から、その後の調査の結果、弥生時代後期(2~3世紀)の土器片5点が見つかった」と発表。このため「これまで坑道が掘られた時期は不明だったが、今回発見された土器から弥生時代後期と推測でき、国内最古の鉱山遺跡となる可能性が高まった」とやや遠慮気味(?)の表現ですが、シンプルに「日本最古の坑道跡である」と、この際言いきってほしいものです。歴史的な遺構の古さの順位というのは勿論常に暫定ではありますが。

   坑道内で発見された5点の土器片

 

土器片は、入り口から内部へ3メートル入った地点で見つかったとのことですが、この坑道は横穴で奥行きおよそ13メートル、幅最大3メートル、高さ1メートルほどの大きさで、岩盤の削られ方などから人為的に掘られたものであることは明らかで、見つかった土器の特徴から、弥生時代後期つまり今から1800年ほど前に掘られたと考えられるということなのです。
鉱物を採掘するための坑道の跡としては、今から1300年ほど前の奈良時代の銅山の例が国内で最も古いとされてきましたが、今回の発見はなんとこれを500年ほどさかのぼることになります。
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大教授(考古学)は「この時期は、むき出しの岩を石きねで砕くなどして辰砂を採取していたと考えられていたため、これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘しています。

             坑道入口と内部の様子(阿南市提供)

 

ところで、朱は権力の象徴とされ、3世紀の中国の三国時代の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、倭(倭国・当時日本列島にあった国家)の山では丹(辰砂)が採れ、女王卑弥呼が中国王朝に丹を献上したと記されています。
朱はまた、赤色の塗料であるとともに、薬品の素材であり、防腐剤、防虫剤としても利用されていました。水銀と硫黄の化合物が朱(硫化水銀)ですから、加熱して硫黄を分離すれば、水銀を得ることができます。古代中国において朱と水銀は、不老不死を願う神秘的な薬品いわゆる仙薬の主原料として珍重されました。
邪馬台国とヤマト王権。日本の歴史のはじまりの時期にあったこのふたつの古代国家は、朱(辰砂)という鉱物の採掘とその輸出によって繁栄した『朱の王国』だったと言われます。ゆえに邪馬台国の領地内には必ず大規模な朱の生産地があったはずということになります。

さて、ここからはオマケ的な情報になりますが、弥生時代後期の1~3世紀に唯一存在が確認されている大規模な朱の鉱山・若杉山遺跡と女王卑弥呼。奇しくも同時期に存在したこの二つをつなぐワードはやはり朱の王国「邪馬台国」ではないでしょうか。
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国に至る道のりは「・・・投馬国から南行して邪馬台国に至る。そこは女王が都とするところである。水行で十日、さらに陸行で一月かかる」と書かれていて、陸に上がって一か月を要す、そんな山奥に邪馬台国はあったとされています。さらに「その山には丹(朱)がある」と書かれているのです。
となると阿波の山奥「邪馬台国は剣山だった」という一部の方のご意見もあながち無視できないかもしれませんし、若杉山遺跡が弥生後期の唯一の鉱山跡で、全国に例がないような大規模なものだとわかってからは、剣山派の方々の鼻息が俄然勢いを増しているように見えます・・・。

面白い話ですね、楽しすぎますね。
そんな歴史の定説を覆すような大それた話、夢物語として楽しむだけにしときなさいよ、と言う失笑の声が聞こえてきそうですね。
私もこれ以上話を盛り上げるのをやめておきたいと思います。

 

★閑話休題

<古里のお釜の底深く沈んだ石錘>
下の写真をご覧ください。
これは石で作られた「石錐(せきすい)」という、魚を獲るときに網に取り付けて重りとし
て使われたものと思われます。

私が中学生の時に家の裏山で見つけたもので、その後振り返って色々考えてみると、その場所はいわゆる「貝塚」に間違いなく、白く風化したような貝殻が土に混じってたくさん散らばっておりました。
私はそれを掌にのせたとき、石の正体がなんであるかよりも、その美しさに驚き感動するばかりだったことを覚えています。

色々調べてみますと、「石錘」とは、石材の凹部や溝部に漁網や釣り糸を結びつけ、錘(おもり)として網漁に使用したもので、川漁において使用されたおもりは年代によって材質、形態が変わっていき、縄文時代には土器の破片を利用した土錘(土器片錘)が現れ、次に河原石を利用した切目がある石錘や、溝がある土錘に変わっていく。さらに、溝がある石錘などが現れ、弥生時代には大陸から伝来した「管状土錘」が主体を占めるようになる。ほかに貝錘、骨角器としてシカの角から作られた鹿角錘もあった、とのこと。


         管状土錘

 

<形状から見た錘(おもり)の種類とその時代>
手ごろな川原石の両端を打ち欠いた打欠石錘(礫(れき)石錘)。後期旧石器時代にすでに少量みられ、縄文時代にもっとも多い。
川原石の両端に切目(きれめ)を入れた切目石錘。縄文時代中~晩期にみられる漁網錘である。この二種類が大半を占めています。
少数ではありますが一周または一文字、十文字に溝を施した有溝(ゆうこう)石錘。縄文時代後期以降にみられます。
これらを用いた網漁としては曳網や刺網、投網など多様な形態が想定されています。
いずれも使用法としては、その打欠きまたは溝に紐を結び漁網の下に並べてつるしたものであろうと考えられます。


 紐のかけ方によって違う様々な溝を持つ石錘       礫石錘(打欠石錘)

 

<管状石錘>
管状土錘は弥生時代に大陸から伝来したものということですが、私が拾ったのは「管状石錘」というべきもののようです。でもどうしたことか、ネットなど色々調べても管状石錘に関する資料が見当たらず、写真も見つからないのです。私としては今後の課題になりました。
ところで、石錘に使用される石材は遺跡周辺から採取可能な礫であることが多いのですが、遠方から採集される石材を用いている例も見られるとの情報が載っておりました。
この写真をじっくり見てみると、何やら「化石」らしきものが見受けられます。石質としては石灰岩と思われ、化石は「紡錘虫(ぼうすいちゅう)」つまり「フズリナ」だと私は思うのです。

加茂町には「かも道」なる古道があり、それは太龍寺山ふもとの「一宿寺」から21番札所・太龍寺に至るへんろ道で、その途中に石灰岩を産する場所があるのですが、そこの石とは似て非なるものと思われます。
更に調べてみると、フズリナの殻は石灰質(炭酸カルシウム)からできており、その死骸が集まって堆積したものが「フズリナ石灰岩」といわれます。その産地としては島根県、山口県(秋吉台)、岡山県などが知られているようです。当時の交易範囲からいって岡山などはほんの庭先のようなもので、もしかすると大陸から島根又は岡山を経て石錘そのもの或いはその石や製作技術が伝わってきたのかもしれません。
どのような事情を経て私の家の裏の貝塚の中に数千年もの間埋まっていたのでしょうか。そしてひょんなことから坊主頭の中学生に掘り起こされてしまったのでした。

 

<お釜の底へ>
ところでこの石錘は、この加茂の里で当時の弥生の人たちにどのように使われたのでしょう。
宮ノ前遺跡の横を流れる川の名前は「那賀川」といって、いわゆる1級河川にふさわしい川幅と水量のある川です。上流には4つの大きなダムがあります。

この宮ノ前遺跡の場所のすぐ前の流れはちょうど緩やかなカーブになっていて、対岸には山から続く堅固な岩の壁があってそのまま水の中深くに沈みこんでいます。そんな地形のせいか、そのあたりの水底はとても深くなっていて泳ぎながら顔をつけて覗いても底が見えないと聞きました。僕たちは先輩方から、そこは「お釜」という名前だと教えられ、後輩たちにも、そう言い伝えたのでした。
こちらの岸から流れに逆らいながら泳いで行って「お釜」の上を泳ぎ切り、対岸にたどり着くには並外れた勇気と体力のいることで、私は目の前で向こう岸まで泳いだ人を見たことはなく、ただ「〇〇さんは、やった」「●●さんもいけたらしいぞ」という伝説めいた話が残っているだけなのでした。
少年の僕はといえばお釜の濃い水の色を見ただけで戦意喪失、いかにも固そうな岩の壁にも、ただ圧倒されるだけでした。

名前の由来であるお釜の底のような深い水底にはさぞかし大きな魚(うなぎ、フナ、コイ、ニゴイなど)がたくさんいて、上流にダムもなく、生活排水で汚染もされていない清流が悠々と流れる「お釜ブルー」は、ことのほか美しかったことでしょう。
そして青い水の底へと漁網が下ろされ、その先にこの美しい「石錘」がしっかりと結ばれてゆっくりと沈んでいく、そんな光景が目の前に浮かぶのです。

<すり石>

さて私の住んでいた家は、宮ノ前遺跡からほんの数百メートルほど離れた山際にあります。
玄関を出て、眩しい朝日を手のひらで遮りながら少しばかり見上げると、真正面に高い石垣があって、そこには、かつて空海が求聞持法を修める為に、朝早くから山深い岩場に通うために寝泊まりしたという「一宿寺」があるのでした。

貝塚のあった裏山は急峻な傾斜地で、それでも細長い段々畑が数段あって梅の木や桃の木数本と野菜なども作っておりました。
中学生の私も時々手伝ってその畑を耕したりしていたのですが、今思えば畑ばかりではなく、屋敷の土や池の中からも色々と不思議なものが出てきたのを覚えています。下の写真の石もその一つで、おそらく「すり石」といわれるもので、クリ・クルミ・ドングリなどの堅果類をすりつぶし、粉をひくためなどに用いた石器で、石皿と組み合わせて用いられることが多く、集落遺跡から出土するとのことです。
那賀川の川原石かもしれませんが、あまり見かけない石ではあります。

私の家のある集落の地名は「加茂町宿居谷」といい、豊かな水量の谷川があって山から流れ出たところに小さな扇状地を形作っているような地形の中にあります。
10軒余りある家の敷地は段々畑のように上へ上へとあって、一番上の奥には広い敷地と大きな蔵のある「●●家」があり、そこは加茂城の支城である山城「加茂西城(かもにしのしろ若しくはかもにしじょう)」の居館(館城)があったところと思われ、おそらくその後裔もしくは縁のある方が住んでおります。居館の後ろ手には裏山の頂にある「加茂西城」に続く道が残っています。
私の父はその山頂一帯を「じょうの」と不思議な音で呼んでいたので、いったいどんな字を書くのかな、とずっと思っていましたが「城野」と書くのだと最近納得したのでした。


        加茂城址から見おろす加茂西城址と宮ノ前遺跡
        左の赤丸内が「加茂西城」のあったところ。右が宮ノ前遺跡

 

そんなこんなで、この集落のどこを掘っても縄文時代から現代までのあらゆる時代の遺物が出てくるのではないかと思います。
更地になっている敷地跡もあるので、いつの日か何かの機会にどこか一か所でも存分に掘りに掘ってほしいものです。
(投稿:阿南H・O つづく)

 

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