2017年8月16日

平和運動を担ってきた人たち

阿南の地で、市民が一体となった平和運動が始まったのは・・・それはいつごろのことだったのか、もうずいぶんと昔のように思えて、記憶をたどってもかろうじて蘇る映像にはしっかりと霞がかかっています。
2017年8月9日、阿南市役所の前庭で、今年も「阿南市民平和祈念集会」が開催されました。


平和祈念集会は毎年「平和祈念の塔」の前で行われ、今年で33回目を迎えます。
今回は新庁舎の完成に伴い平和祈念の塔が新たな位置に設置されてから初めての記念すべき集会になりました。新たな位置は前庭西端の一角にあり、朝一番に明るい日の当たる「良き日」を象徴するような実にいい場所です。
この日、式典が終わってから、塔の前に立って感慨深げに見つめる年配の方々の姿がありました。その姿を見ていると、だんだんかつての光景が鮮明によみがえってきました。
実は阿南市にこれほど「平和運動」が定着したのは、「この人たち」がいたからなのです。

    松崎清治氏と仲間たち        塔の設計をした江川正治さん(左)と仁木正弘さん

 

上の写真の人たちは、
第2回国連軍縮総会へ日本代表団の一員として参加した人。
はるばると瀬戸内の海を越えてヒロシマへ被爆の石を受け取りに行った人。
同じくナガサキの被爆の石をいただきに行った人。
万感を込めて祈念の塔をデザインし、「平和のゆりかご」を世に表出させた人。
みんな、祈念の塔建立のために昼夜をとわず市内全域を歩き、カンパをいただきに廻りました。1987年8月9日、その浄財でこれらの塔や碑の完成を見たのでした。
これは、阿南市長、阿南市議会、市婦人連合会、市青年連合会、セニアクラブ連合会、そして採算を度外視して塔を作ってくれた岡沢石材店さんや、たくさんの市民の方々の、平和を希求する思いの賜物、まさに結晶です。
この塔はその後の平和運動の象徴として存在しています。塔の建立に携わった人たちはその後、活動の先頭に立って阿南における平和運動を担ってこられました。

ところで、もう一人忘れてはならない人がいます。
「市民平和祈念の碑」の標柱の前に横たわるように置かれている細長い四角の石。それは広島市内の建物の設備の一部として使われていたといいます。「被原爆の石」とかかれています。
この文字を書いたのは当時阿南市議会・革新クラブ(現・市民クラブの前身)の「奥田勝」市議です。彼は1945年8月6日、兵器学校の生徒として学んでいた広島で被爆しました。
その後地元阿南で役場に入り、自治労阿南市職委員長、阿南市議として労働者や市民の権利と生活を守る活動を、また被爆体験を踏まえて「阿南那賀地区原水爆禁止協議会」を立ち上げて代表を務め、反戦・反核運動の先頭に立ちました。その相棒として「松崎清治さん」が前になり後ろになりながら、いつもそばにいたことを私たちは鮮明に覚えているのです。

彼は晩年、被爆後遺症によって余命いくばくもない日々を、最後まで反核平和のために活動しました。下の新聞記事は1999年8月7日付の朝日新聞に掲載されたものです。
彼はこの翌年2月、労組と市議と反核・反戦平和と、退職者の支援に関わる長い活動の矛を収めて、燃え尽きるように鬼籍の中へ入っていきました。

※下の新聞の画面は、ワンクリックを2段階に分けて行うと見やすい大きさに表示されます。

阿南市民平和祈念集会。
懐かしく、少し切なく、そして心強い感情が湧き上がってきた、2017年8月9日の朝でした。
いつものように明るい日が昇り、蝉がなく。

敵意と悪意に満ちた何物も空から落ちてこないこの平和、「絶対平和」をとこしえのものとして確立し守っていきましょう。
先輩たちが進めてきた「平和を守る」というあたりまえの活動を、愚直に力強く続けていきましょう。

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